夢の中で、久しぶりに両親に会いました。
父親が一升瓶2本転がして、3本目を手酌で飲んでいました。
断酒したのに、なぜ!? と思いながら取り上げましたが、彼は別に悪態をつくわけでも、暴れるわけでもなく、おとなしいものでした。
出先から帰ってきた母親に、お酒を飲んでいたから取り上げたと言うと、なんとその酒を与えたのは母親だと言うではありませんか!!
「なんで!?」
「だって、かわいそうじゃない…」
思わず母親をひっぱたきました。
断酒に成功した人に、お酒を与えるのが優しさですか?
表層的な思いやりをみせることが善意ですか?
会社に提出する書類を書かなければならなかったので、それを仕上げたらもう、二度とここには顔を見せないぞと、固く決意。
わたしの問題じゃない。
もう夫婦の問題だから、というか母の問題だから好きにして。
母親はなぜ? とかいろいろ言ってきていましたが、それは他人が教えてどうこうという問題じゃなくて、彼女自身が考えることだと思って無視。
書類の下敷きにした本のタイトルが「トラウマティック・メモリー」で、目覚めてしみじみ。
…ずいぶんと遠くなってきたなあ。
インナーチャイルド座布団を膝の上に抱えていると、くったりと寄り添ってくるのですが、もしかしてぬいぐるみをかわいがるのも同じようなものかな…とふと感じました。
わたしはぬいぐるみを持ったこともないし、欲しかったこともないのですが、身体の外に、自分の中の柔らかい部分、大事な思いを預けるのは、安心がないとできません。
生き物はそれぞれに個性があって、イヌだろうとネコだろうと、カイコだろうと同一視することはありません。
日ごと、時間ごとに、居場所が変わる生活の中で、避難場所(シェルター)としての育ての親はあったけれども、あれは一時的な安全であって、ライナスの毛布とか、ぬいぐるみとか、あるいは他の大事な存在とかを一度も持ったことがなかったのは、常時臨戦態勢だったからかもしれません。
自分の外に、それがないと生きていけないようなものを作るのは危険すぎてできません。いつ移動するか、いつ戦闘状態に突入するか、予測もできないので。
ようやく安心を手に入れたんだなあ。
でもまだまだ、休憩中
コメント