心の層のたどり方

心には層がある

 

大人になっても子どもの頃に感じた感覚や誤解が人間関係に影響を及ぼしています。
事実に解釈がくっついたイメージは、気付いたら手放せばいいのですが、気付かずに動くのがイメージというもの。一般の人間関係はこのイメージとイメージのぶつけ合い出てきています。心のことを学んでいくと、心には層があって、イメージは一番上の方だと気付いてきます。その下に、かわいそうな子どもの誤解や、相手への正直な気持ち、ジャッジメントや葛藤、そして本来のあなた自身が眠っています。

イメージとは

 

事実に解釈(誤解)がくっついて気持ちや思考が囚われてしまうことをイメージといいます。
たとえば、フルタイムの仕事から帰ってきたお母さんがいつもすぐに、大好きな植物の水やりをするとしましょう。実際に子ども時代にわたしが体験したことです。

あなたはずっとお母さんの帰りを待っていて、とてもお腹がすいています。でもお母さんはまったくあなたに気付かず、声もかけずに水やりに向かうのです。
大人になると日が暮れたら水やりは大変だから先にしたい気持ちも理解できますが、子どもは自分がお腹がすいていることしかわかりません。

「おかあさんがわたしのご飯よりも植物のご飯を優先するのは、わたしを愛していないからだ」と考えてしょんぼりしてしまいます。
このイメージから見た世界では、あらゆることがおかあさんががあなたを愛していない証拠に見えてしまいます。
事実:お母さんが帰宅後すぐに水やりをすること
解釈(誤解):おかあさんはわたしを愛していない
気持ち:しょんぼり めそめそ 見捨てられた感じ 自分には価値がない感じ

 

かわいそうな子どもの踊り場

 

何か納得できないことが起きた時には、とてもつらい気持ちが起きるのですが、そのつらさにすでにあなたの解釈が混じっています。
とても小さな子どもの解釈です。
既に成人されている方は、何かが起きた時に感じる辛さがその時初めて感じる感覚なのか、ふり返ってみてください。
実はずっと前から、小さなころから知っている辛さじゃありませんか? どうすることもできないような、無力で犠牲者の感覚ではありませんか?
それを感じているあなたは今でも、小さな子どもの時の自分と同じ感覚や解釈をしているのです。

大人になると、頭でなんとか自分を説得したりもします。相手には悪気はなかった。ただ未熟だっただけ。まだ許せない私が大人になっていない・・・。親には親の事情がある。

ああでも、わたしは辛い。頭の中がぐるぐるして止まらない。全然許せない!!
子どもの感覚で大人を責めるいつもの感じに囚われて抜け出せなくなります。

 

相手への正直な気持ち

 

ザワザワ、モヤモヤする激しい反応に気付いたら、身体の中の詰まったり痛かったりするところに新鮮な呼吸を入れてみましょう。暖かくて無色の新鮮な呼吸をゆっくり身体に通してあげる。
そうして、相手のことをどう感じているのか、正直に見てみます。

「事実:お母さんが帰宅後すぐに水やりをすること」を今感じてみたら、相手に対して何をしたくなりますか?

ここが結構難しいのです。内向きに自分の辛い気持ち(しょんぼり みじめ)をみる、というか浸ることは簡単だけど、外向きに相手にどうしたいかを認めることが難しい。なぜなら、結構なブラックちゃんが出てくるから。
逆に相手への怒りを感じやすい方は、イメージなしに相手をどう感じるかと、普段感じている怒りの区別が難しいかもしれません。(×相手がどうこうだ、ひどい 〇自分は相手をどうしたい)
サポートが必要な場合はサポートを専門家に求めてください。(家族や親友ではなくて心の勉強をしている人に)
例えばあなたは、植物の世話をしているおかあさんの後ろ姿をにらみつけているかもしれません。踏みにじりたい思いや怒りがわいているかもしれません。
今まで感じてこなかったもの、あるとは思っていなかった気持ちが出てきます。肩を掴んでがたがた揺らしたかったりするかもしれません。踏みにじってずたずたにしたいかもしれません。

その時出てくる最初のネガティブな感情は、本当の気持ちに蓋をしている怒りや悲しみです。十分に身体を通して感じます。身体のどこが痛み、固くなり、感じなくなっているのか。瞬間的な殺意や激怒や悲嘆が抜けていくと、自然に身体は動きたくなったり、声が出たりします。そうして気が付くと身体が緩んでもう少し深く自分が何を感じているのか探求しやすくなっています。

 

ジャッジメント

 

少し楽になったら信じ切っていることを意識化してみましょう。当たり前だと信じ込んでいることはなんですか。何が叶わなかったのでしょうか。持ち切れなかった気持ちは何ですか。
たとえば今回のわたしの場合は母親は子どものお世話をしなければいけない、お世話=愛という誤解がありました。
他の子の家ではお母さんがご飯をつくり、洗濯や掃除をしていました。(高度経済成長時代、まだ雇用機会均等法前、専業主婦がほとんどの時代です)

どうしてわたしの母親はご飯もつくらず掃除も洗濯もしないの? わたしのうわ靴はいつも汚いの? この混乱の場所で子どもなりに作ってしまった信念(誤解)は、「わたしは母親に愛されていない」だったのでした。(母はフルタイムで働いていたのですが)

あなたも信念を疑ってください。信じていることは本当に世界の真実なのでしょうか。もともとは耐えられない(と感じた)現実を飲み込むための解釈だったのです。解釈することで納得して生き延びようとしたのです。子どもなりに。

そのことは十分大人になる助けとなりました。例えばわたしは親に愛されていないと思うことで、一人で頑張る力がついたり、事務処理能力が発達したりしました。
ですがイメージを真実だと思い込むことで様々な不都合も生まれました。
お世話=愛ではありませんね。大人なら子どもを愛していても仕事に行きます。自分の時間も必要です。子どものためだけに生きることは不可能です。“=”を外した時に始めて、「(親の)愛はあった」でも「お世話してほしい(子どもの望み)もあった」ことが、それぞれ別の問題として考えられるようになります。

なのでもう一度その耐えられないと感じた現実を見てみましょう。ここも専門家のサポートが欲しいところ。一人だとかわいそうな子どもの踊り場にスリップしやすいのです。

 

葛藤

 

私の場合は、ものすごくお腹がすいていました。
差し込むようなお腹の痛みがあって今すぐ満たされたい、日中母に会えないさみしさや帰ってきてほっとした気持ちに気付いてもらえない、「ここに気持ちがあるよ、ここにわたしはいるよ」を受け取ってほしい、でも叶わない、その葛藤とフラストレーション。

どんなふうに不快なのか。
いたたまれないのか。
身体が動きたがるのか。

 

子どもの頃は耐え難かった現実を、大人の自分が見てあげましょう。
その時、本当の意味で一番欲しかった「ここに気持ちがあるよ、ここにわたしはいるよ」をあなたが叶えていることに気付いてください。本当は大人のあなただけが子どものあなたの一番欲しかったものを叶えられるのです。
気付いているよ、そうだったんだねと大人の自分が見つめていると、子どものあなたには耐えられないと感じた気持ちや感覚が変化していくことに気付きます。

そうなんです、耐え難さとは、ただフラストレーションを持て余してどうしたらいいかわからなかった凍り付いた時間(トラウマ)だったのです。
その外的環境を変えなければ幸せになれないと思ったために、一人で立てる自分や愛される自分に向かって頑張ってしまいました。
でも残念なことに、それは幸せルートではなかったのです。
(達成してきた力や才能の価値は変わりませんが)

 

エッセンス

 

耐え難い瞬間が去っていったとき、あなたは自分がなんだかほっとして寛いでいることに気付くでしょう。そして本来のあなたが現れます。それはどんな個性をしていますか。優しい子、自由な子、創造性に満ちた子、寛容な子、勇気のある子。本来のあなたが立ち現れます。

 

トリガー

 

あるいは現実のどんな瞬間にこの子どもっぽい解釈が起きるのかにも、気付くかもしれません。
わたしは誰かに声をかけた時に、その人がうつむいていたり、他のことに意識を取られていたりするだけで「愛されていない」が発動しますよ。びっくりですね。

こんなふうに心の層を辿っていくことができます。
どんな旅よりも面白くて深いあなただけの探索の旅です。

二度と一人ぼっちにならない、愛と信頼に繋がる探求の旅路です。

コメント

  1. 青山えみよ より:

    昔々、地元に遊びにいらしていた尚美さんが、どのような語気で家族のお話をされていたか、今もそこで聞いているように思い出せます。
    私は今も手放せない呪詛が今は誰もいなくなった家族や、父方の親戚に向かってしまいます。
    今は亡き人を師として、勉強を始めようと思った矢先に訪れてしまった別れ。

    あれやこれやでかなり重度のうつ病となり今の自分は家の中に閉じこもっています。
    根っこは子供の頃からの理不尽と思える親戚から受けた仕打ちや、一旦は許可しつつやはり『ならん』と意見を翻してそれに反抗できない『イイコ』な自分であるな。とカウンセラーと週に一回話していると気づけました。
    心を勉強する。
    今の私に必要なことだと感じます。