欲望の最高の力を、真の存在と完全さに向けて、中心へ注ぐもの

欲望の最高の力を、真の存在と完全さに向けて、中心へ注ぐもの

「何もかもが互いに矛盾し、互いにかけちがい、どこにも確実さがありません。すべてがこうも解釈できれば、また逆にも解釈できます。・・・いったい、真理はないのでしょうか。真の価値ある教えはないのでしょうか。」

「真理はあるよ、君。だが、君の求める『教え』、完全にそれだけで賢くなれるような絶対な教え、そんなものはない。君も完全な教えにあこがれてはならない。友よ、それより、君自身の完成にあこがれなさい。神というものは君の中にあるのであって、概念や本の中にあるのではない。真理は生活されるものであって、講義されるものではない」

『ガラス玉演戯』上 p87 新潮文庫より

 

自分は何者なのかに迷った人がはまるヘルマン・ヘッセ。

この作者の『ガラス玉演戯』上下 新潮文庫は絶版で、kindle版や復刻版などで読めます。
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ヘッセの作品群は10代の若者の自分とは何者なのか、どうあるべきかの苦悩に満ちていました。逆説的ですが“完全にそれだけで賢くなれるような絶対な教え”に憧れる者のバイブルだったように思います。『デミアン』とか。

言葉にできなかった混乱をくっきりと示してくれる、そして少し神秘的な方向性を見せてくれる。うっとりと味わい、そして”真理は生活されるものであって、講義されるものではない”という後半の文章は素通りしていくのです。
人生も後半戦になって、初めて、いやその通りだなあ、としみじみ思います。

真理はありました。でも外にはありませんでした。経験の中で感じ取るものでした。
AとBのどちらかが正しいという論法がそもそも未熟でした。一方的な視点、平面的な視点、止まった時間。自分が知っているという誤解の中でAとBを比べようとしていました。知ればわかる、と思い込み知識を増やせばうまくいくと思い込んでいました。

逆もあります。体験することだけがすべてだと思い込んでいました。学べば拡がる視野や世界の大きさや深さを知らないままで体験だけを繰り返しました。

“欲望の最高の力を、真の存在と完全さに向けて”外に向かった。”
完璧な知識や素晴らしい体験を追い求めて次から次へと体験すると、同じレベルのバリエーションだけが増えていきました。

そうして世界は拡がり、真理は遠ざかり、迷いの数が増えていきます。

どこかで“欲望の最高の力を、真の存在と完全さに向けて、中心へ注ぐ”ことをした時に――それは行動としては武道かもしれない、スポーツかもしれない、宗教や、科学や、生活かもしれない――その体験が、自分の身体と思考と感情や気の一瞬一瞬の気付きに繋がるとき、はじめて真理の静かな瞬間が立ち現れるのです。

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