母は生涯特急列車として走りぬけ、わたしは鈍行列車の停車駅として、いつも置き去りになっていた。
母に出会うためには、自ら、あるいは他人の手を借りて特急列車の停車駅に立ち寄り、わずかな時間を乞い願うことが必要だった。
不在ではなくて、非在。
目の前にいても、目にはとまらぬ存在でしかなかった。
特急列車の停車駅にしようとした努力は、母の死によって無効となった。
わたしは世界と解離した。
そしてお嬢は、いきなり目の前からわたしが消えたことに戸惑っていた。
犬には散歩が必要だ。
でもわたしには散歩に行く気力はなかった。
仕事帰りに喜び勇んで迎えるお嬢の傍らを通り抜け、部屋に閉じこもった。
お嬢は戸惑い、目線を合わせようと必死になり、いたずらをしてみせ、すべての努力が無駄だと悟って元気をなくし、それでもかすかな望みをもってわたしを見ていた。
それはわたしが母にしてきたことだった。
わたしは、母がわたしにしたことと同じことを、お嬢にしていた。
毎日後悔し、今日は散歩に行こうと思っても体が動かなかった。
お嬢の目が曇り、お帰りの挨拶がなくなっても心が動かなかった。
無理やり散歩をすると、小さなわたしがわたしを責めた。
わたしは何一つ貰ってないのに、まだわたしから奪っていくの?
わたしが得られなかったものをどうして与えようとするの?
わたしにとっては2年間、お嬢にとっては10年間が失われた。
休業して、眠れない夜が明けるとともに散歩をはじめ、お嬢は最初は疑い、そのうち再び信じはじめた。
毎日散歩にいけることを。
わたしが再び彼女のもとに戻ったことを。
4年目の今、お嬢は散歩を当たり前のように受け入れ、喜び勇んで走り回る。
そしてわたしも、散歩を楽しんでいる。
寝過ごすと時にはサボる。
繋がれた犬には散歩が必要だ。
居場所を汚すのは、彼らがどんなにないがしろにされているかの証だから。そして犬は自分の居場所をけして汚したくないと思っているから。
でも、お嬢は日々、好きなところですごす。
彼女には、夏に、冬に、怯えたときに好きな居場所があり、家の敷地内に決めたトイレがある。
だから散歩は教条的な義務ではない。
散歩は喜びなのだ。
お互いにとって。
たまにサボると、お嬢は恨めしげにわたしを見る。
わたしはごめんと言いながらも、もうわたしを責めない。
たまにはそんな日もあるさ。
雨の日に、彼女がけして外を歩かないように、わたしにも行きたくないときはある、それだけのことなのだから。
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