17.鈍行列車は歩き出す

昨年は丸ごと神さまにお任せして積もり積もった汚泥を取り除いてもらった。
壊れたダムを補修し、いつ水を注いでも大丈夫なように。

でも水はたまってこなかった。
水は今のわたしの喜びからしか生まれなくて、他人任せでは無理なのだとわかった。

喜びの体験を積み重ねることでしかエネルギーはたまってこない。

でも喜びを感じるのにはどうしたらいいんだろう?
自分を責めるのをやめるためにはどうしたらいいんだろう?

春のワークショップはひとつの契機になった。
わたしの中の一番深いところで、まだ生々しく血を噴き出している傷があるのだと知った。

出会えた魂のお母さんとのセッションで、本当に傷つけているのは憎悪や、恨みではなくて、わたしがそれでも両親を愛していることだと判った。

愛があるから苦しいのだ。
愛があるから忘れてしまえないのだ。

そうして父が離脱した。

最近、一人でワークをしてみた。

「もうどこにも行かないよ。いつも一緒にいるよ」

母の顔で行ったとたんに、発作が起きた。
魂のお母さんに置き換えたら、ひとときわたしは安らいだ。
母なるものは永遠にわたしの傍らにあって、けして離れていかないのだと感じた。

ひととき。

天の岩戸の向こうには鏡がある。
鏡に映るわたしの顔は、きっと母の顔をしている。

わたしはまだそれを見たくない。
それが何か、まだ知りたくない。

しばらくの間、放置しようと思う。
時間はいつも、その人に必要なだけ充分にあると感じている。

鈍行列車は鈍行なりに、少しずつ前進し、いつか永遠に寄り添う母を発見するのだと思う。

コメント