…なんて考えたこともなかったその昔、それでも一所懸命なだけじゃ駄目だ、結果を出さなきゃと思いこんでいた。
一生親の面倒をみるしかないんだよ。
一時でも家を出るためには、口当たりのいい理由が必要だ。誰も助けてはくれないんだよ。
いろんな思い込みがあったけど、それはそれで役に立ったなあと、今になって思う。
タメをつくるというか、出来ることの幅を広げることができた。
がんばるという意識なんかいらなかった。生き延びるために必要だったから。
その分、やらない人を責めたりもしていたけど、子ども時代の無理は、自分の動く余地を広げてくれた気がする。
アルバイトや一人旅、県外への大学進学、仕事……結果を積み重ねて自信をつけた。
一方で、どうせ何もかも無駄になると思いこんでいたけど、それはそれでその時を楽しむことに集中できた。
どうせ全部刹那の喜びなんだから。
お茶やお花も、いやな行事は全部パスして、やりたいことだけしていた。
生舞台にコンサート、欲しい本……その時に味わいたいものを遠慮なく追いかけた。
気楽に楽しむことを、誰が反対しても一人でも遊ぶことを満喫した。
ネガティブな動機だったけど、これもこれで役に立っているなあ。
コアビリーフは、不自由になった時に気が付けばいいことなんだろう。
子ども時代に完全に幸福な子どもがいるのかどうかはわからないけど、不幸も傷も自己不信も、悪いことばかりじゃないと思ってみたりする。
今は、明日はよくなると何気なく思っているけど、いい明日は今次第というのがより正確な感覚かもしれない。
無理はしない。
楽しいこと、出来ることだけやっちゃおう。
でもこれを子ども時代に実践していたら、今よりも不自由な人生になっていたかも知れないなあと、ちょっと思う。
無理が成長になる時期もあるよね。
でも成長したからといって、かつての傷が消えるとは限らないよね。
傷口に気付いたら、それは過去じゃなくて今現在の痛みとして大事にしよう。
とりあえず、出来るようになったこと。
時々は新メニュー料理。
気が向いた時の掃除。
お祝いの気持ち。
年賀状。
まだ無理なこと。
人混み。
親族やご近所さんとの1分以上の会話。
元気な友だちや知り合いと会うこと。
PTSDに関する読書。
依然としてヒッキーだけど、随分と明るいヒッキーになってきたよw
コメント