キャラバンサライ

「さよならぐらい言っていくものだぞ、アルジャーノン」 PALMあるはずのない海より

30年来の友人が急逝しました。
第一報は意識不明の重態、その翌朝の訃報。くも膜下出血により、ほぼ即死であっただろうということです。
今日が本葬でした。

最初の知らせを聞いた途端に、ああまたか、と最初に感じてしまいました。
父、母、夫の祖母、同僚、お嬢…なぜかわたしの身近な存在は、いつも唐突にいなくなる。第一報はたいてい死または危篤。お別れを悼む時間もない。

もしかして、孤独がわたしの二つ名なのかな、と一瞬脳裏を過ぎった思考。
これははじめての体験ではなく、きっと最後の体験でもない、今後も失いがたい相手をきっといきなり失うのだという魔術的な確信。

半日ほど感覚遮断がありました。
その一方で、初夏にお嬢が教えてくれたように、何も失われるものはないのだということも体感していたのですが。

翌日、怒涛の悲しみに襲われました。
どよもすような、圧倒的な質感。闇の虹色。
慟哭は深く、激しく、豊かでした。

かつて母がなくなったとき、わたしは何も感じることが出来ないまま、ただ涙しておりました。
二度と会えなくてもかまわないと思っていた相手がいなくなったことになぜ泣くのか理解できぬまま、PTSDと欝の4年間をすごしました。恨みや憎しみがほどけて本来の自分が戻ってくるまでの長い長い空白……それに比べ今回はわずか半日。

嘆きの深さをただ味わい、受けとめ、感じます……多分この嘆きはこれからもまた訪れることだろう……この先の人生においてまた深く悲しむ日が来ることだろう……それは別れまでの時間が充実していた証。いとおしい相手がいた証。わたしはこれにYESと言う。何度失ってもYESと言う。

わたしの二つ名は「孤独」かもしれないけれども、別の言葉に置き換えてもいい。永遠の転生の中で、人生は一夜の宿。
わたしはその宿の主となり、たくさんの旅人を送り出す、そういうことがしたくてこの世に生まれてきたのだ。
そう、言うこともできる。
同じことだ。

そして一方で、本当に何も失われておらず、不思議なほどに寂しくないのを感じます。危篤の一報から、彼女の気配は常に傍らにあり、今なお消えない。お嬢が半年たった今でも、日々気配を感じさせてくれるのと同じくらいに。
ナッシングハート・・・傷つくものは何もない…これも本当。

だけどね。
しっちゃかめっちゃかに絡み合った神さまのタペストリーの中で、どちらがカーターでどちらがジェームズかというほどに、互いを写す鏡だった相手がいなくなったこと。
セラピストのひよことして活動を始め、コラボワークをするときに、こんなに打ち合わせがいらないで楽しくやれるなんて、なんてラッキーなのと言い合った相手がいなくなったこと。
越後屋、おぬしも悪よのう…と互いの腹黒さを忌憚なく笑い合えた相手がいなくなったこと。
全く別々の方向から、今回はこんなことしてみない?と同時に話し、シンクロ具合に驚いたり、やってみたらとんでもなく面白かったりした最高の遊び相手がいなくなったこと。
それをどう受け止めたらいいのか、正直なところまだわたしには判らないよ。

MIXI名 華さん、永眠です。

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