次元を変えることについてのメモ

次元を変えることをしたいのだと、昨年あたりに考えていた。
別に傷ついた人を癒やしたいわけじゃない。もうそれはいい。

でも次元を変えるって、どんなことなんだろう?

人や物に傷ついた一瞬、傷つけた一瞬、あまりに衝撃が強いと、原爆で地に焼き付いた影のように対象は記憶の中で平面となる。

焼き付いた記憶があまりに強烈で、自分も相手も、そして世界も一元的、ペラペラの書き割りだ。

でも、それはアナログな写真でしかない。写真でも効果を変えれば(背景を、絞りを、フォーカスを変えれば)違うものになっていくのに。

誰が一瞬の焼き付いたイメージの自分を、本体そのものだと思うだろう。

謝罪し、されるなら、許し、許されるなら、過去の一瞬のイメージではなく、今の自分に届くもの、全体としてのわたしとあなたの間に起きるものであってほしい。少なくともわたしはそれが好きだ。

心に響くのは、誰かが解釈なしに何かを見るとき。どんなに美しい評価も、悪い評価も、ただの一面でしかなければ、意味があるとは思えない。

過ちは繰り返さないと過去の一瞬に向かって、宣言して何になるだろう。誰がありがとううれしいよと言うだろう。
ましてやそんなことはなかったと言われた日には、ますます全体性は遠ざかる。

あったことはあったのだ。思惑や意図がどうあれ。

全体性を取り戻すとは『その一瞬』を否定するものではない。あの瞬間を全体の中に取り込み直すこと。

焼き付いた瞬間を全面的に受け入れる。確かにそれはあった。その衝撃を、その重みを、深さを受け入れる。誰がなんと言おうと、わたしは、あなたはそう感じた。

でも、感じたそのわたしは何?
そのあなたは何?
その世界は何?

時間軸を伸ばしてみたら?第三者に代弁してももらったら、代弁をしたら、状況を三次元に置きかえたら、記憶のストーリーをシンプルにひっくり返したら、望みがすべて叶ったら、わたしは誰?
あなたは誰?
世界は何?

そこにいるのは誰と誰?
何と何?

誰が誰と出会い、何が何と出会う?

そして何をする。
どうやって遊ぶ。
何を無心に楽しむ?

凍りついた時間を流す。
凍りついた空間を四次元に配置する。
書き割りのイメージを立体的な息づく人に戻す。

どういう時に、エラーは生じ、どうやってそれに気付き、どうやって我に返るのか、そのシステムを理解し体現する。

次元を変える。
全体性の回復。
メモ。

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