あれから7年

母の葬儀から丸7年が過ぎました。
(お嬢の誕生から丸16年でもあるけれど)

今朝、桜を写していて、そういえば・・・と気がついた。
桜を見るたびに、フラッシュバックで死に掛けていたのは4年前か?
桜を評価しつつ涙混じりに感じ取れるようになったのが3年前。

今は、桜は単に桜です。
好きだ。

フォト
フォト

『街場の中国論』内田樹(うちだたつる)ミシマ社を読む。
寡聞にしてこの方がどういう方なのか、全然知らないのですが、ツイッターで流れていた最終講義が感動的だったので、手に取って見た。

専門家の揚げ足取りではなく、市井の自ら考える人の視点で観る中国論。
久々にワクワクした。

「あらゆる国民国家の成員は自国の成り立ち方について固有の「物語」を持っています。アメリカにはアメリカの物語があり、中国には中国の物語がある。僕たちの眼から見て理不尽なふるまいに見えても、中国人にとっては主観的には合理的なもののはずなのです。どういう文脈の中に置けば、この「意味のわからないふるまい」が合理的なものとして立ち現われてくるか、その文脈を探り当てることがこの本における僕の主要な関心事でした。」
―帯より。

たとえば7年前、わたしは「母が死んだのになぜ自分が生きているのかわからない」とPTSDと鬱で死に掛けた。回復には4年を要した。とくに愛情も関心も持っていない相手がなくなっただけで、なぜ自分がそこまで打ちのめされるのか理解できなかった。
だから理解できない不合理な自分にどんな文脈が合ってどんな合理的な整合性があるのか、とことんよりそって見てみようと思った。
悪戦苦闘はしたけれど、すさまじいストーリーがあったわけで。
見てみたら、そりゃそう思うわ、と納得できたわけで。
納得したら、それはひとつのストーリーだよね、と自分を取り戻せたわけで。

内田さんの中国論には、相手にも自分にもしっかり寄り添いきれた人の明確な視点がある。
よくある一方的な解釈のおしつけではなく、相手も自分もきちんと内側の文脈から見切った上で、世界の中で双方を位置づけするもうひとつ上の統合がある。それが大変気持ちよい。
いや、楽しいよ、これ。

その他、有川浩さんの『県庁おもてなし課』も無事サイン本ゲット!
これも今この時代に読むと実に面白い。硬直した資源のない地方の官公庁の閉塞感をどうぶちやぶるか。これって自縄自縛に嵌ったときの抜け出し方とよく似てるなあ・・・。

『無花果の実のなるころに』西條奈加 東京創元社 
楽しい。気風のいい老婦人の粋なこと。

さて先日、腹の底から込み上げる思いを表現しきったら、ようやくわたしの中の沈黙の臓器(心)がじわじわ自己主張し始めてます。
「わたしの心は悲しいことしか感じない」
本当か? どういう文脈なのか、そのうちワークしてみたいなあ。

津波の写真集を入手しました。
なによりも田畑が津波に飲み込まれたことがわたしには辛い。
どれほどの年月と、どれほどの人が丹精込めて育ててきた土壌かと思うと、瓦礫と塩害を越えて地味を取り返すことができるのか・・・。緑豊かなカルタゴの地に塩を撒いたカエサルの所業を思い出す。砂漠化した彼の地。
不可能とは思わないが。

久々にモノクロ(に見える)の夢を見ました。
生あるものが何ひとつない滅びた惑星。時折現われる少女の幽霊が一人。
けして不幸でも苦痛でもない夢です。
生がないというのは、これほどに静謐なのかと、沈黙の深さに震えました。
これはこれでありなんだよ、うん。

でもとりあえず、この地は春。

フォト
フォト
フォト
フォト
フォト

コメント