神奈川です。
今回も満腹
何にも悩み事を提げてはなかったのですが、セッションの中で思わぬものが出てきてしまいました。
前振りとして、最近読んだ小説『暗闇の速さはどれくらい』に感じた衝撃というのがありまして…。
これは21世紀版アルジャーノンという煽り。
題材は知的障害ではなく、高機能自閉症。治療が可能になった未来に、最後に残ってしまった自閉症者たちの自覚と、選択が描かれています。
違う部分も多いんだけど、なんだか社会生活訓練の過程に、自分の体験がダブって仕方がないんですね。
こういう言葉を掛けられたら、こんな返答をすればいいとか。
こういうシチュエーションでは、こんな風に振る舞うとか。
共感ではなくて、頭の理解で対応を決めるけど、実感は、実のところはあまりないあたり。
でもって、わたしの感情の座(心)ってひび割れた小さな塊みたいだなあ…と。
お腹は感覚を伝えてくれるし、頭はいつどう振る舞うべきか教えてくれて、ものすごく役に立っているのに、心は共感も反応も他人の2、3割しかできない欠陥品で、上と下を繋ぐただの通路みたいだなあ。なんか悲しいなあ。
こんなものをぼんやりと感じて神奈川に行ったら、2日目はなんだか、心の特集日ですか、というくらいにいろんな方の心の問題が溢れまして…。
それに響き合うものがあったのか、セッションに入った途端に滂沱の涙。
胸の部分が泣くわけです。
わたしの存在意義は何だと。
頭もお腹も無限の広がりがあって、役に立っているのに、砂時計のくびれみたいに、ただ上下を繋いで、通りの悪い細い管で、砂を流すだけが自分の役割なのかと。
わたしだって、普通の人みたいに、感度のいい綺麗で大きな球でありたい、と。
…え!?
そんなに引っかかってたの?
いやあ、びっくりです。
少々鈍いセンサーでも、役に立ってるよ、そのままでいいよと、理性も無意識も言っているのに、何だか意識の上に妙な悲しみがあります。
サポートしてもらいながら、いったいどこへ向かうんだろう、何がこんなに悲しいんだろうと自分でびっくり。
泣き疲れて、長い長い沈黙の後、不意にひびたらけの小さな塊が、宇宙に浮かぶ地球のイメージに切り替わりました。
何だ、これ?
わけがわかりません。
でも、ひび割れは山脈や川や雲や、海岸線にすり替わり、見えるのは、暗闇の中に鮮やかに青い地球なのです。
相手の方に、これは何かと聞いてもらいました。
胸は、世界の焦点だよと答えました。
わたしが無ければ、世界は存在しないんだと言いました。
無限の理知も膨大な無意識も、それだけでは単なる存在、事象に過ぎなくて、全てに意味を与えているもの、個人を形作る土台となっているもの、個々の命の基盤はわたしだと、言っていました。
何かをするものではなくて、ただ在ることで世界をつくりだしているものだと。
ほ、本当ですか!?
頭がびっくりしています。
胸って、心とか感情とかの場所じゃなかったっけ? とか、感情センサーの鈍さが悲しいとか、そういうお題じゃなかったっけ?
砂時計が砂時計の意味を持つのは、くびれがあるからだそうです。
首が細いとか太いとかはただの個性だそうです。
(いや、それはそうかもしれないけど)
無意識の意義についてはこれまでたくさん学んできたし、多少杓子定規ではた迷惑だとしても、~すべきだと語る理性の役割も学んできたけど、心ってただ苦しいとか辛いとか、危険信号を出すだけの場所ではなかったんですねえ。
(本物の嬉しさ楽しさは、腹の底から出てくるので、胸は素通り^^;)
世界の焦点なんだって。
存在するだけで、世界を創造してるんだって。
へ~~~。
頭はあまりの衝撃にびっくりして、ひたすら疑問符を浮かべていますが、胸はなんだか大満足したようです。
これが本当だとか嘘だとかは問題じゃありません。
割と無視されがちな胸(感情?意識?自我?)が、正面からピンポイントで見てもらえて、自分の言葉を聞いてもらえて、とっても嬉しかったらしいです。
それにしても、なんだか不思議なセッションとなりました^^;
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