59.年末鬱


今朝なんだかひがみっぽくなっている自分に気が付いた。

最近聞いた話。
高校生の息子を持つお母さんが、息子の受験について行くのだとか。

旅慣れてないし、朝起きられるかどうか心配だし…。

口には出さなかったけど、

ええ? 高校生にもなって、そこまで面倒みるの!?
凄い過保護。
と、イライラした。
人それぞれなのに何で、気になるのかなあ?

通勤時にちょっとマインドフルネス。

傷付いた子どもが暴れていた。
回復して、楽しい日々を送っているからといって、わたしがいることを忘れないで。

ひがみっぽいのはその子じゃなかった。
その子の存在を消そうとする、今のわたしに負荷がかかって、冷笑的だったり、気になったり、不快だったりするのだった。

…だって回復したんだし。
もういいじゃない。忘れても。

どこかでないことにしようとしていた。

回復って、わたしを消すことか!?

過去のわたしが暴れていた。

もう、意識を乗っ取るほどは大きくないけど、確かにある時期のすべてを覆っていた、何年かのわたしが、わたしは消えない、と叫んでいた。

家族が家に籠もったり、他の家族を思うこの時期、居場所がなくてさまよい続けた子どもがいた。

苦しかったけど、寂しくはなかったわたしを大事にしろ、と子どもが叫ぶ。

…違う子の尊厳という言葉が、ふいに浮かんだ。

それは人並みになりたいんじゃなくて。
お仕着せの幸福なんかいらなくて。
団欒が欲しいわけでも、かまって欲しいわけでもなくて。

ただいることを、そのままの自分の存在を、何の色も付けずに見てほしいだけだった。

寂しかった子どもは、寂しくない未来に喜んで溶けていくのかもしれないけど、凍りついていた子どもは、凍りついていたことを、否定されたくないらしい。

毎日のんきに暮らしているからといって、なかったことにはならないらしい。

大事にするって、成長することじゃないんだなあ…。(いやもちろん、成長が悪いとかいうことではないけれど)

今のわたしは、プレゼントを選ぶ人をみると微笑ましい。

でもわたしがそれを欲しいか、と言われたら、別に何にもいらないし別に嬉しくもない。

そう感じるにはそれだけの流れがあって、それって自分が大事にしなければ、誰にもわかってもらえない部分だよなあ。

ひねているとか、まだ駄目なのかとか、他人に言われたくない、柔らかで大事なところ。

でもついつい見た目の幸福を演出したくなるところ。

本当に欲しかったのは、ただの安全な居場所なのに。
安全で、無理なくいられるところ。
それだけでいい。
それ以上は欲しくない。

でも期待に応えたいと、ついつい過剰に振る舞ってしまうんだな。
でもってイライラする。

他人の熱気がくるしくてもがいていた10代を、ちょっと大事にしようと思う。
ただ、そういう部分があるなあ…と静かに認めるだけで、イライラも、他人への拘りも、あっという間に静まった。

今年も無理はすまい。
マイペースで、年末を迎えよう。

正直、当時何があったかなんてほとんど覚えていないけど、意識化できた過去の事件や家族関係のあれこれなんてどうでもいいんだけど、言葉や意識にのぼらないところの何かって、そのままにすべて「あり」なんだよね。

ああ、でも今日は1メートルくらいの距離でチョウゲンボウを見たよ♪
むちゃくちゃ嬉しかったな~。

基本的にはお気楽路線で…。

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