「子供時代」が生まれたのは18世紀。産業革命から。
日本にいたっては、20世紀から。
余暇がうまれ、親が子供に手をかけ始めてから。
そのわずかな歴史の中に、児童虐待を見る。
痛みを語る。
親達が他の手段を知らないのは当たり前だと、理性は語るのに。
世界中で起きている、少年兵、子供の病気、児童労働、女児の性器結索、もちろんそれも虐待だけれども、まず、生きていかなければならない環境の中で、虐待が自覚されることはまずない。
親にも、子供にも。
過去の歴史の中に山のようにあった事実も、「子供時代」が生まれるまでは、ただの事実でしかない。
だから貧しかった時代を知っている親には、自分が子供に何をしていたかわからない。
次世代の親達は、貰ったことがないので、子供になにを与えたらいいか、わからない。我慢するのは当たり前。殴られるのは当たり前。無視されるのは当たり前。ただし、彼らには兄弟姉妹が多い。親が何をしなくても、年長の兄姉の世話を受けて育ってきている。大半は。
そして三世代目以降に病気が表面化する。ほとんどが二人兄弟以下で、核家族で、密室の中で行われるさまざまな無自覚の虐待。
自分は我慢してきたのに、なぜこの子には出来ないのか?
自分は親から特に何も貰ってないのに、どうしてこの子は親を責めるのか。
食べさせているのに、教育を受けさせているのに、小遣いを与えているのに何が他に必要なのか。
(家なんかご飯も時々とんだけどね)
なぜこの子は他の子と同じことが出来ないのか。
あるいは、逆に
自分が与えてもらえなかったものを全部与えてやったのに、どうしてこの子は、反抗するのか。
子供は他人。親が欲しかったものを受け取って、うれしいかどうかはその子による。
欲しくなくても、子供は親の喜びのために、貰ってしまう。自他の区別がつかない頃から、強制的に押し付けられて。
親の喜ぶ顔をみたくない子供はいない。
そうして自分が消えていく。
自分って何?
自尊心って何?
取り戻すのはものすごく大変。
一から作り直さないといけないから。
前にも書いたけど、
本当は親は子供を殺したいんでしょう。
(理想の自分をつくりたいだけ)
子供は親のために生きるんでしょう。
(親の中の空虚を埋めてあげるためだけに)
もうやめたけど、わたしは。
やめてもなお、鎖で縛り付けられている。
砕けた夢のかけらの中に。
永遠に叶わなかった夢。
安全な家の中の愛される子供。
いつの日か、生の讃歌を歌える日が来るといいな。
美がまえにある
美がうしろにある
美が上を舞う
美が下を舞う
私はそれにかこまれている
私はそれにひたされている
若い日の私はそれを知る
そして老いた日に
しずかに私は歩くだろう
この美しい道の行くまま
ナヴァホ族の歌
からだは溶けて宇宙となる
宇宙は溶けて音のない声となる
声は溶けていちめんの輝きとなる
そして輝きはかぎりない歓喜の胸に抱かれる
パラマハンサ ヨガナンダ
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