弔辞 2004..4.12


死の直後に書いた弔辞です。
フラッシュバックが出たので、再確認のためにも載せてみました。

母が亡くなりました。旅行帰りのバスの中、楽しくおしゃべりしていて、急にろれつが回らなくなり、すうっと眠り込んだそうです。3月28日のことでした。2日間脳死状態のまま存え、30日夜に永眠しました。
29日から兄とともに付き添い、1日に葬儀を行い、一週間を義姉を交えて共に過ごして、○○に帰ってきました。疎遠な親子であり、疎遠な兄妹であった私たちに、必要な時間を母が与えてくれたように思います。
最後まで、和解することなく、一言も交えることなく母を見送りながら、なにひとつ後悔はありませんでした。やっておけばよかったとか、もっと会いに帰ってくればよかったとか、なぜこんなに突然にとか、通常親しい人と別れる際に思うことは欠片も脳裏に浮かびません。どうやっても私たち兄妹が受け入れることのできない人でした。互いが互いのやり方で父母のあり方を否定して幸福を築いてきました。今なお、生き返ってきてほしいとはまったく思いません。むしろ重荷から解き放たれたような気がします。
けれども、母を亡くして、やっと、母を惜しむことができるようになりました。葬儀の席でひたすら涙をこぼしながら、母を切り捨て続けてきたことがいかに私にとって苦痛だったかを改めて感じました。過去はすでに過去でしかなく、どんなDV(これを言ったのは兄で、兄にとっても実家がいかに苦痛に満ちたものだったかを改めて知りました)の日々だったとしても、子供時代の一時期でしかありません。それよりも、今現在、母と共存することができないことこそが苦痛であり、どうやっても愛せないことが負担でした。亡くして初めて心底から、哀しむことができました。
そうしてまた、私たちにとってどのような親であったとしても、惜しむ人がいることがただただうれしく思えました。
風変わりな、まるで結婚式のような葬儀となりました。
死の知らせに真っ先に駆けつけてくれたのは、母のかわいがっていた教え子の一人である県議で、彼が親族のいない私たちに替わって葬儀の一切を取り仕切ってくれました。おかげで、黒服の秘書たちが駐車場案内をするという怪しい通夜になりました。××五兄弟、と私たち兄妹は呼んでいます。長男が元大臣の××で、兄の結婚式には来賓として出席していました。葬儀社も兄弟の一人がつくったもの、兄の家もほかの一人がつくったもの、と何かとご縁のある間柄なのですが、公職選挙法違反になるんじゃないの? 国会議員が参列したらどうする? 一民間人なのに、と笑いながら、うれしかったのも事実です。さまざまな会のメンバーが駆けつけました。自治会会長、老人会会長、コーラスグループ三つ、短歌会二つ、卓球会二つの世話役をし、ボランティアガイドとして活躍していた母の交友関係の広さに目が回りました。来る人来る人が、いかに母に世話になったか、どれほど忙しい生活をおくっていたか、どんなに花が好きだったかを語ってくれました。
地元では寺で葬儀を執り行います。Xという寺は、地元でもっとも格式の高い寺です。通常なら、けして許されないことですが、母がそのXコーラスの指導者であったことから、弔辞のひとつは、Xコーラス+もうひとつのコーラスグループによる、『荒城の月』の男女混声合唱団による合唱でした。母のもっとも愛した歌だそうです。
話がうまいと地元で有名な(役所のさまざまな司会に借り出される)兄がまず、喪主挨拶を述べました。短く思い出を語りながら、最後に、「母は教員でした。今日はおりしも辞令発布の日です。私が母に、最後の辞令を渡したいと思います。△△△△△、あなたの地上におけるすべての任を解く。新たな世界で、花を愛で、人を愛し、楽しく過ごしてください」というと、列席者から嗚咽が聞こえてきました。
葬儀委員長と化した県議の弔辞も、くしくも『荒城の月』でした。かつて、母の指導で独唱コンクールに出て受賞したことなどの思い出を語ってくれました。
それぞれの短歌会の弔歌がつづき、最後が前出の『荒城の月』合唱です。(←生ピアノ伴奏付)
参列していた友人の母が、感動的な葬式だったと語っていたそうです。
しかし、どう振り返ってみても、お経を聞いた覚えがないのです。曹洞宗なので、般若心経がつきものなのですが、最初にわずかにむにゃむにゃと唱えていたきり、お坊さんは添え物のように座っていたきり、退場していきました。参列者は500人近くいました。退職して20年になる老人の葬儀としては破格の集客数でした。もちろん、義理で参列した方も、母に顰蹙していた方もたくさんいらっしゃると思います。けれども、天衣無縫で、他人の心など気にも留めず、やりたいことをやりたいようにやってきた人柄を愛した人もいるのだと、知ることができたことが、私には救いでした。他人の心のわからない人だ、というのが、私たち兄妹の共有認識ですが、公式の場での母はそれなりに、愛されてきたのだと確認できました。ささいな好意がうれしくて、私はひたすら泣いていました。はたからは、さぞ、悲しみにくれていたように見えたに違いありません。
その後の一週間は、初めて持つ兄妹の時間でした。
父の元気な間は、兄は友人宅に避難し、私は育ての親の家に逃げ、ほとんど、共にすごすことがありませんでした。母一人になってからは、兄は義姉の実家で過ごす事はあっても、母と語ることを好まず、私もほとんど帰郷せず、ますます疎遠になっていきました。
今回の事件は、母の最大の子孝行となりました。私たちのどちらも、母の不幸を望んではいませんでした。ただ、私たちと別のところで幸せであってほしいと願っていました。母の死に様は私たちのどちらにとっても、救いとなりました。倒れたのも、椿サミットという、花を愛した母らしい旅の、しかも帰り道!の出来事で、脳幹の動脈瘤破裂といういきなりの事態にまったく苦しまなかったはずだと医者にも言われました。
恐ろしいまでに散らかった母の家の片付け(遺品整理ではなく、各会の期末決算資料を、探し出すため)をしながら、故人の悪口を言い、悲惨な子供時代の思い出を語り合い、それでも互いにグリーフワークを積み重ねていました。悲嘆ではなく、悲哀であったと思います。私たちはそれぞれ、幸福な家庭の幻想を抱き続け、外で実現してきました。本来、実家でこそ得たかったものを、けして叶わぬことだと思いきめ、封印してきました。後悔はありませんが、決別はそれぞれにとって重いものとなりました。ただ一人の同志として、語り合う日々を持てたことは、互いにとって幸せなこととなり、必要なことでもありました。義姉はできるだけ、二人の時間を持てるよう、気を配ってくれました。義姉にとっては父はやさしい人であり、母は、付き合いやすい姑であったようです。そうして聞く外からの意見も、新鮮で面白いものとなりました。
初めて聞いたのは、兄の私に対する贖罪の念の深さです。子供時代、たしかにいじめられたこともありましたが、私にとってはそれは単なる子供時代のよくある話に過ぎませんでした。でも兄はものすごく後悔していたようです。家族の中で一番弱いものをいじめることで、なんとか耐えていたのだと、口重く語っていました。私には幸福になってほしいのだと、すがるように語る姿に、兄の傷の深さを知りました。
兄はけして、家の中で言葉を荒げることも、手をあげることもしないと決めているそうです。人の言葉に耳を傾けることにも意を尽くしています。夢のような家庭を築いてきて、今の心配は、自分の子供たちが外の世界に出たとき、世間はそんな穏やかなものではないことを知って、どう対処できるかということです。家庭内で多少の荒波があっても、「ま、いいか。あれに比べれば、全然まし」とつい考えてしまい、抗弁をしないそうです。
義姉はそういう兄を一人我慢してかわいそうだと、語ります。兄のあり方は間違っているのかもしれませんが、そこまで一人でたどり着け、同伴者、理解者を得られたことを、私は誇りに思います。義姉は私の心配もします。本当にくつろげる場所が得られたのかと尋ねられると、私もある意味、答えることができません。本当にくつろげるとはどういう事を指すのか、判らないからです。けれども私なりに得てきた幸せを誇りに思います。
兄と義姉は中学生時代の同級生で、義姉は全然、実家が荒れていたことを知らなかったと言います。「外で言うわけないじゃないか」と兄は語り、私も同意します。私たちは本当に戦友のようです。
私にとって三年ぶりの帰郷は意義のあるものとなりました。親に会いたくないばかりに、地元の友人たちに会えず、馴染んだ場所に帰れないことは、寂しいものでしたので、これを機にしばし、友人たちとの再会を楽しもうと思います。ただ兄や義姉には自分の家庭があり、いつまでも空家やあふれかえる木や花の面倒をみることは、財政的にも、時間的にも不可能なので、そのうち失われることだと覚悟もしています。故人そのものでなく、故人がいたことでなりたっていた状態が失われることへの哀惜は深いものですが、それでも後悔はありません。故人との間にとうとう築き得なかった関係への悲哀も、いずれは癒えるものだと思っています。
長い間抱え続けてきたくびきからようやく解き放たれたような気がしています。今は静かに、わきおこるさまざまな感情を、抱きしめていこうと思っています。

……それで、出て来たのがPTSD。

たまらないね。

グリーフワークの会とか絶対に行けないのよ。
だって、故人を惜しむ気持ちは全くないんだもの。
たどり着いたのはACの自助グループ。
大嶋先生の情報もそこでもらいました。

全部終わらせます。来年には。

父親が消えたように、母親も消えるはず。記憶の中に。

ああ、あんなこともあったのだと、思い出したら苦しいけれども、普段は忘れて生きていけるはず。

目を逸らせなければ。

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