62.ことば

どうもわたしは言葉が苦手らしい。
特に自分を語る言葉を知らない。

説明することや、聞くことは好きなんだけど、思いを言葉に載せるのはどうにも苦手だ。感情の振幅が少なくて、載せる思いがあまりない。

古い記憶がある。

生まれてからずっと日中を過ごした育ての家には娘さんがいて、わたしはその人を「ねえちゃん」と呼んで慕った。
ねえちゃんは優しくて意地悪だった。
「ねえちゃん、わたしのこと好き?」
聞くたびに、
「嫌い」
と言われて泣いた。
周りの大人たちは、笑いながら
「そんなはずないじゃない、もう一度聞いてみな」
と言う。
もう一度聞いた。
「本当に本当に嫌い?」
「本当に本当に嫌い」
もう泣かなかった。聞くのを止めた。

ねえちゃんはわたしをものすごく大事にしてくれながら、そういうことを平気で言う。
だからわたしは言葉(とそれに繋がる心)の部分を無視することに決めた。
ねえちゃんが何を言おうと、遊んでくれて見守ってくれる時間は本物だ。

でも娘さん、今になって思うけど、どれほど無邪気な問いをいらだたしく聞いていたことだろう。
15やそこらで、親を他人に取られたのだ。
当たり前のように家の中にいる異物。
無邪気に慕ってくる、いたいけな、責めることも無視することもできない異物。
しかもそいつは結構可愛いんだ。

娘の面倒を見ない親は、預かりものの赤ん坊には限りない時間を注ぐ。
娘のご飯は「勝手に作りな」と言いながら、預かりものの幼児には手ずから食べさせる。(仕事だから)
その上、彼女の権利を奪っていった赤ん坊の面倒まで見させられる。

言葉にできない、誰にも判ってもらえない悲しみはどれほどだったか。

ねえちゃんの「嫌い」には本気の心が乗っていた。
冷え冷えとした鋭い感情が繋がっていた。
だから泣いた。

でも忘れた。
心がどうあれ、ねえちゃんは本当にわたしを可愛がってくれていた。
泣いても、泣いているのはわたしの一部でしかなくて、他の大部分は何ひとつ疑ってなかった。
大事にしてくれる腕と眼差しと背中の気配。
それ以上なくても、わたしは大丈夫だった。
だから焦点を言葉に合わせるのを止めた。

大人になって語り合った時、ねえちゃんはやっぱりわたしに嫉妬していたのだと言った。親取られたし。
でも可愛かったのよ。

うん、ものすごく可愛がってもらったよ。
その記憶しか残ってないくらいに。

思うに、チビのわたしはことばをとてもヘンでキケンなものだと封印しちゃったんじゃないだろうか。
自分の感情も他人の感情も厄介だけどそんなに大きな位置を占めてなかったから、まあいいやって。

おかげで長じて人間関係ですごく苦労したけど。
学習して伝達手段としての言葉は駆使するようになったけど。

でも聞いているのも観ているのも感じているのも、実は気配だけなんだよね。
快、不快はわかるけど、むかつくとか腹が立つとか、ちょっと複雑な心の部分になると、人の言葉は響かない。自分の感覚も響かない。(そういう言葉の奥にある感覚は聞いているけど、言葉がなくても聞いているしな・・・)

全然困ってないけど、でも困ってる。
世間ではそちらのほうが優先されているらしいと気がついたのも大きくなってからだし。
わたしの感情は幼児レベルでとまっているけど、世間の人の感情は生きてきた時間分、成熟していて、その人の中で大きな位置を占めているらしいし。

言葉を自分を表現する手段としてではなくて、とりあえず世間とやりとりする手段として学習してきたから、今自分にあった言葉がなくて、伝えたいことがあまりなくてちょっと困惑。

わたしに合った言葉ってなんだろう。
伝えたいことってなんだろう。

少し静かに感じてみたい気分。

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