恐竜のおたけび

今日初めて、人のいう「寂しさ」がわかった。
わかって嬉しくなって泣きながら笑った。笑いながら、初めて味わう寂しさに泣いた。

人にわかってもらえないこと、同じ立ち位置で感じてもらえないこと、同質だと受け止めてもらえないこと、わからないと言われること、ここにおいでと強要されること、尊敬されること、軽蔑されること、共鳴してもらえないこと、これが「寂しい」なんだ。

今まで知らなかった。
わたしが知っていたのは、個であること、人であること、限定された存在であることの哀しみで、それは全なるものと溶け合うこと、焦点を持つこと、今を感じることの喜びと変わりないものだったから。

原初の安心に戻るセッションをしたら、人間を通り抜けて個が消えるところまで勝手にいってしまう。
お母さんの膝には留まれない。お母さんの胸には留まれない。家族には留まれない。
みんな得られたかもしれない人間の関係をベースにセッションしてくれるから、最後は、わたしにはわからないけどあなたはあなたでいいというところに終わる。
それで全然構わなかった。
提示してもらえるとこには行きたくなかった。狭すぎた。

でも今回第一チャクラのワークを得て、地面ができた。
はじめてそこに留まれる自分が生まれた。混乱が整理された。
これは表の喜び。

でももっと深い喜びがあった。
わたしははじめて、わたしの世界に人を誘った。
わからないと言われつづけるのはもう嫌だった。
そんな社会には、わたしは入れない。
わたしはわたしが入れる社会をつくりたい。
でなければ、いつまでも一人で幸せな異邦人のままだ。
いつまでも外国人扱いされるままだ。

だから、参加者全員を巻き込んで、どうにかして伝える気でいた。
わたし自身の感覚がどんなものか。
わたしが生きてきた世界がどんなものか。
なにがなんでも共鳴してもらうという強い決意があった。

伝わった。
共有してもらえた。
その喜び。
自分の混乱が消えたことよりもはるかに深い自己表現の喜び。

社会の第二幕。
見ていた人には未消化な感じが残ったんじゃないかと勝手に思っているんだけど、わたしにはものすごく深く染みとおるものがあった。

社会の輪の外で自在に暴れるBちゃん恐竜。
あれは今までのわたし。
独りが平気なわたし。

社会と手を繋いで、輪の中に入ったBちゃん恐竜。
社会と手を繋ぐために必要だった、背後の兄。

兄は社会に入りたいというモチベーション、感情の化身。

現実の兄は、BKちゃんをソフトにした感じの人気者で、社会の中に居場所を求めて得てきた人、ものすごく寂しかった人、愛が欲しかった人、暴れて泣き叫んで求めてきた人。感情の豊かな人。(午前中のワークの中でお金を掴んで友だち誘って…という話が出ていたけど、現実の兄はまさしく同じことをして怒られていたのでおかしくって仕方がなかったです)

恐竜は独りでも平気だから、今まで社会に入りたいとはあまり感じてなかった。
でもちょっと前に、病気の時のわたしの日記を読み返していたらぼろぼろ泣けた。クライアントの底力に心底感動した。(自分に感動って変だけど、でもまだ融合しきれてないから( ^ ^ゞ)
わたしはこの子たちに寄り添いきれるセラピストになりたい、この子たちが力を発揮できる存在になりたいと誓約した。
そうしたら、社会に遠慮しているままではとても叶わないのがわかった。

でも入れる社会がなかった。
じゃあ、わたしがつくってしまえと、恐竜が咆哮する。
みんな巻き込んでしまえ。
モチベーション。
わたしが感じないと言い続けてきた感情。
今回初めて体感できた、人の間に生まれる寂しさ。繋がりを求める気持ち。
まだ生まれたばかりでおぼつかないけど、今までのわたしにかけていたもの。
兄という名の対極を後ろ盾にしてようやく、社会と手を繋ぎたいと心から願える。

第二幕のその後は、今はまだ頭の中。
手を繋ぎあってきゅうきゅうに狭い社会が、もっと人を増やして、繋いだ手を放しあって、それでも繋がりを感じたままどんどんどんどん広がった中で、限界のない世界の内側で、どんなに尻尾を振り回しても誰も傷つかない確信をもって恐竜が伸び伸び踊る。
ありとあらゆる人たちの恐竜が踊る。

そういう未来。

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