遍照 あまねく照らす

今日は昼から、タイトルの言葉が頭の中を踊りまわってます。
昨日誰か、そういう話されてました? 岡山で。
なんでいきなりこんな言葉が出てきたのか、自分でもわからない。
わたしは広隆寺の弥勒と興福寺の阿修羅を見るのが死ぬほど好きという以外に全然仏教や密教に造詣が深くないんだけど。

昨夕。
阿字観本尊。

見せてもらった瞬間に何かが響いて、その触感があまりに深くて離れがたかった一幅の軸。

蓮華が立体だったのです。
その上にたつ阿の梵字がわたしだと感じたのです。
わたしということはありとあらゆる命だと感じたのです。
金の光の中に深く静かに受け止められている、その実感があまりに深く深く沈んでいく。
ただ味わってお腹いっぱいになって、何かよく判らないけど泣けてきて震えてきて嬉しかった昨夕。

今日の昼休み。
港で鳥を見ながら、兄に対するわたしの中の否定的なイメージをちょっとバイロン・ケイティ・ワークでもしてみるか、といろいろ物思っていたとき。

ふと、祖父が砂浜で松葉を拾っている後姿が甦ってきました。
小3のときに、94でなくなった祖父。
ほとんど記憶は残っていません。
声を聞いた記憶もありません。たしか家の中ではほとんど話したことのない、厳しい大柄な矍鑠たる老人だったと思います。
祖父を思い出すとき、微かな畏怖がついてくる。それだけの人でした。
この瞬間までは。

でも祖父の近辺をうろちょろする小さなわたしの姿が見えたのです。
そう言えば、風呂の焚きつけ(松葉)を拾いにいく祖父について、時々海辺に行ったっけ。桜貝拾ったり、松ぼっくりをむしったり、砂の感触を楽しんだり…。

その途端、ヘレン・ケラーの「WATER」状態。

わたし、家族の中でただ一人、祖父だけは後追いすることができた!!
祖父だけは、後追いするわたしを受け止めてくれていた。
祖父だけは最初から代役のない「おじいちゃん」だった。

非在の父、逃げていく母、逃げていく兄。
追いかけて、追いかけることをゆるしてくれる人は他にはいなかった。
でも祖父だけは、自分が行動するときに、側にわたしがついていくことを受け入れてくれていた。

一緒に行くか? そろそろ帰ろうか?と聞かれたことはないです。
笑いかけられたこともないです。
話しかけられたこともないです。
可愛いと思われていたのを知ったのも、つい数年前。
育ての親の一家の語る祖父の思い出を聞いたとき。

でもついていくことを否定されたこともないのです。
置き去りにされたこともないのです。

その感触が、大人のわたしの中で、昨夕の本尊の、蓮座に引き寄せられるように浮かぶ、けして形を失わない「阿」字と重なり合ったとき、
「おじいちゃん、おじいちゃん、おじいちゃん」
知らず言葉が溢れていました。涙が溢れていました。
胸の奥からこみあげてくる熱量。掌に小動物を抱いたほどの持ち重り。引力、重力。

はじめて判った。
はじめて味わえた。

これが肉親の情なんだ。

育ての親たちの愛とは違う。
彼らは、どこの誰であれ、預かった子を大切にするだろう。

でも祖父は、わたしが孫だからこそ、積極的な行為や行動ではなくても気にかけてくれていた。
そこに生まれる熱量。偏愛。
これがみんなが当たり前のようにしっている家族の実感なんだ。

つい最近まで、マザー・テレサの言葉がさっぱり理解できませんでした。
「この世の最大の不幸は、貧しさや病ではありません。
だれからも自分は必要とされていないと感じることです。」

一人で死ぬことのなにが悲しいのか。
だって独りじゃないじゃん。
最後まで、自分は自分とともにいるじゃん。
路上に落ちた蝉が腹を見せて横たわり、その屍を蟻が食むように死ぬことの、なにがそんなにも辛いのか。

でもここにはあまやかな熱量はない。時にしがらみとなる重力もない。
人と人との間にだけ成り立つその感触、情。
これを人は求めているんだ。

やっと判ったよ。

…たぶん人それぞれ感じ方は違うのだと思います。
わたしにとっては、後追いできたこと、後追いを許してもらえたことが、他の誰にも置き換えることのできない身内の実感として、はじめて感じ取れたのです。

そしてタイトルの言葉が唐突に脳裏に浮かんできました。
祖父の姿が、祖父に連なる遥かな血脈の中で、母に注がれる愛となり、兄やわたしに繋がって、光の中に収束していきました。

やっぱりわたしは一人で死んでも全然構わないし、わからないものはわからないままだし、違うことは違うままなんだけれども、家族や集団に属することの喜びを、見ることも聞くことも感じることもできない悲しみはどこかに消えてしまいました。

真面目な学習計画を立てていたんだけど。
感情の学びや、家族の間に成り立つ得られなかった体験を取り戻すための手法の数々をさぐっていたのだけれど。

めんどくさいよう。もういいかげん幸せなのに、小さな枠の中でちまちま基本問題を消化していかなきゃいけないのかと、生真面目に深刻に悩んでいたのだけれど。

ああ…(嘆息)
頭って本当にたいして役に立たないのね。

一幅の本尊に出逢えたことで、一気に応用問題が片付いた感あり。
もちろんそれをどう活かしていくかは、また別の問題なのでとりあえず脇においておいて。

超巨大だいふく天から落下。

まさあき君、ありがとう。
まさかこんなプレゼントをいただけるとは思ってもみなかったよ。

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