バイロンケイティワークのもうひとつの感想。
隻手の音という禅の公案があるけれど、本来の意味と離れて(実はよく知らないので)感じたこと。
隻手の音には、惑いの音と存在の音のふたつがあるような気がする。
片手で音を出すことはできない。にも関わらず煩く鳴る響きが常にある。マインドと置き換えてもいいけれど。何かをジャッジする中で。判断する中で。分断する中で。聞こえないはずの音を常に聞いている。幻聴。
ケイティワークの思考のとらわれは、ある意味、その隻手の音。
けれども、一切の価値判断を離れたところで、やはり音は存在している。
無音の響きがあるかもしれない。というかあるでしょう?
存在そのものの中に。淡々と。
ジャッジから解放されて響く存在の音。
そもそも両手の間に起きる反応は音なのか?
音とは運動なのか、衝撃なのか。大気中にしか存在しないのか?とある周波数の荒い波形だけが音と認識されるべきなのか。
そこに本当に音があるのか。これも惑いの音。
誰かと誰かの間に、社会と人の間に、言葉と言葉の間に、多数派の埋没の中に産まれるバベルの塔。
そして、口にし辛い、抵抗や不安の中であえて主文を、その理由を口にする。口にし続けている中で、ゆっくりやってくる平穏。
これって、脱感作療法なんじゃないのかなあ。不安からの解放プログラム。
思い付き。ちょっとメモ。
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