バイロンケイティワークin東京

ティム・マクリーンさん(日本でただ一人のバイロン・ケイティ・ワーク公認ファシリテーター)の2dayワークに参加してきました。

バイロン・ケイティ・ワークとはたった4つの質問だけで展開する自分の思考を楽しく検討するワークです。目的は解放や癒しではなく、ただ100%思い込んでいることに、本当にそうなの?とスペースを開けること。誰かや状況(相手の領域・神の領域)に踏み込んでいる思考を、自分自身(自分の領域)に戻すこと。でも自分の領域に戻るだけで、結果としてどうしても無理と思っていたことがそうでもなくなったりするんですよね…。

自分にストレスのかかる状況について、誰かを思いっきりジャッジします。(あらゆる思いやりや理解を捨てて)

それに対してこう質問します。

1 それは本当でしょうか。
2 その考えが本当であると、絶対言い切れますか?
3 そう考えるとき、あなたはどのように反応しますか?(相手に対し、状況に対し、自分自身に対して)
4 その考えがなければ、あなたはどうなりますか?

そして最初の文章を置き換えます。

内容を反対に。
主語を反対に。(AがBに→BがΑに)
自分が自分にどう、と自分自身のことに。

これだけだと何の効果があるの?って感じですが、実際にやってみて、わたしは初めて過去の体験を虐待だと信じ切っているパートと出会い、その思考を無視しまくっている自分に出会い、歓迎することができました。

もう一度同じような体験があってもいい、いやそれを歓迎するというパートにも出会うことができました。

びっくりした~。

ミソはあらゆる配慮を捨ててジャッジをすることでした。

例えば、わたしは母が大変だったこと、わたしを愛していたこと、彼女なりに最善を尽くしていたことをもう知っているし、愛している。
それでもなお、死んでも二度と会いたくないと、とっさに感じることがある。そのパートだけに寄り添って、母を批判してみる。

主文はこんな感じ。
「わたしは母に怒っている。なぜなら彼女はわたしを見捨てたから」

「母は娘に冷たい。家のことをどうでもいいと思っている。自分の喜びだけを追いかけ家族を捨てた」

現実には扱いはどうあれ育ててもらっているし、家を捨てたわけでもない。でもそういう配慮は一切無視して、思い込みに寄り添います。

「わたしは二度と見捨てられたくない。無視されたくない」

最終展開までは、わかってるんだけどでも、二度とあんな体験はしたくないよなあ…と感じていました。
母が娘を見捨てたのではなく、わたしがわたし自身の痛みを見捨ててきた。虐待だと感じるパートに蓋をして、そうでない生き方を選んできた。
でも今はインナーチャイルドを歓迎している。それでもなお母にはもう会いたくない。

最後にティムさんに二つ目の主文をひっくり返してみて、と言われて初めてドカンと来ました。

「母は娘に優しい。母は家のことを大切にしている。母は自分の喜びだけでなく、家族を維持した」

具体的な例を思いつきますか…いくつか挙げてみてください…更に自分に置き換えてください、とティムさん。

「私は私に優しい。私は家のことを大切にしている。私は自分の喜びだけでなく、家族を維持した」

…家族を維持した、と口にした途端でした。
過去の自分が生きのびるためであれ、自分自身のパートを見捨ててきたことにどれほど罪悪感を感じていたのかが、圧倒的に浮かび上がってきました。けれどもそうしたことで、たしかに家族を維持する一助であったこと、自分の喜びだけではないものをやってきたことも素直に認めることができました。
…そうしたら見捨てることに対する強固なジャッジがどこかにいっちゃったんですねえ。
(これはジャッジの対象を正当化するものではありません。相手を許すためではありません。プラス思考をするためではありません。ただ自分の領域で自分にかけたジャッジを解除するだけです)

最後の一文は、肯定的なものに変換します。(可能なら。無理にそうする必要はない)

「わたしは無視されてもいい。見捨てられてもいい」
「わたしは無視されること、見捨てられることを楽しみにしている」

なぜなら、それはわたしが生きてこなかったパートと出会うきっかけをつくってくれるから。そのパートともっと楽しく付き合えるから。

そしてきっとしょっちゅう自分を無視したり、見捨てたりするだろうけど、それについて素直に感じてみたいから。

バイロン・ケイティ・ワーク恐るべし。

以下紹介。
http://www.thework.com/nihongo/

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