1.親戚のいない家。アダルトチルドレンな私たち

 曽祖父は名跡養子です。名跡養子でピンと来る人は、日本史に詳しい人か、梨園に詳しい人かな。
ようするに、なんの血縁もないのに、家名を継ぐということです。

 曽祖父は屯田兵です。ということは、屯田養子だったのかもしれませんね。優遇政策があったみたいだから。

 実家の墓は、慶長15年で途絶えてます。慶長15年だよ。関が原だよ。その家名を復活させる意味って、利得と絡んでないと考えられません。

 祖父は一人息子です。1877年誕生。明治維新のほんのちょっとあとです。

 北海道の生活は大変厳しいものだったらしく、3町の林檎園があったという話をチラッと、聞いたことがあるけど、結局地元に帰ってきました。地元ではたくさんの人たちが、維新のせいで地元から去っていったので、開いていた土地を購入し、家を建てました。敷地400坪です。建坪は、20坪くらいの小さな家だったと思うけど。まわりの声なんかまったくひびきません。隣の家で何が起きていてもわかりません。

 母も一人娘です。1932年誕生。祖父が55歳のときの子どもです。祖母は出戻りでした。婚家と折り合いが悪く、息子を連れて、実家に帰っていました。祖父と再婚したものの、やはり折り合いが悪く、実家に帰ったところ、母がおなかの中にいるのがわかって、戻ってきたそうです。だから義理の兄が、母にはいるわけです。でも絶縁状態でした。

「でも、ちゃんと嫡出子なのよ」と、必死に言っていた母を覚えています。彼女の中のとても大きな傷口が見えて、子供心に、ここは触れてはいけないところなんだな、と思った覚えがあります。

 戦時中、祖母は闇屋のようなことをしていたと聞きます。商才は祖母にはあったけど、祖父にはなくて、貧乏だったそうです。

 母が24歳のときに、祖母が病気で亡くなります。治療のための借金を背負って母は必死で働きます。

 跡取娘として婿養子を探して父と結婚します。
 父親の実家は戦前は石炭産業で稼いだ商家だそうです。乳母日傘で育ったという話です。戦時中の米のない時代に、お米におしっこ引っ掛けて遊んだという話です。
 
 なぜ、父親と結婚したのか、と尋ねたとき、母は「この人を救えるのは私しかいないと思ったから」と答えました。父親の酒癖は当時から有名で、結婚してからも一銭も稼ぎを入れたことはないそうです。わたしが小学生時代にはもう病人でしたから、働いていた期間は20年、あるかないかではないでしょうか。祖父は1971年まで存命でした。
 
 父母が27歳のときに兄が、31歳のときにわたしが生まれます。父母共に教師ですが、父親は市役所務め→教師への転身です。
 母親が、稼ぎがいいからと進め、通信教育で資格をとらせたそうですが、その答案はすべて母親が作成したそうです。

 背筋のピンと伸びた(けれども他人の都合は気にしないADD)の祖父が、おぼっちゃまで気弱で小心者の(アスペルガー)の父に叱責を繰り返し、最後に切れた父親が、祖父に刃物を投げつけるというような生活が続いていたそうです。(兄の談)

 父親のアルコール依存はどんどん進み、父親の実家とも縁遠くなっていきます。飲酒運転で生徒と事故を起こしてから、とめどなく酒を飲む生活になっていったといいます。

 父母の壮絶なアルコール依存コントロールバトルが始まります。
 わたしは、恐怖がひどくて、ほとんど記憶が飛んでいますが。
 どんなに争いがひどくても、四方に家が一軒も見えないような環境では、誰も助けにはきてくれません。教師は、父母の同業者なので、けして相談など、できません。友達は、父母の教え子なので、けして打ち明けることはできません。

 母は毎日泣きじゃくり、わたしに慰めを求めます。
 話を聞いてあげなければなりません。慰めて、寝かしてやらねばなりません。朝は、毎日起こしてあげねばなりません。

 年老いた両親の間に生まれ、頼るものもなく生きてきた母にとって、わたしは理想の母親役だったのだと思います。
 そして、子どもにとって親が苦しんでいる姿をみるのは、本当に辛いので、最善を尽くして楽しませるよう努力してきました。

 そうしたらわたしがいなくなりました。

 わたしが25歳になったとき、母と絶縁したのは、これ以上母親役を続けていたら自分が本当に消えてしまうという恐怖からでした。

 母は何度も何度も、復縁を迫りました。「もう、終わったことじゃないか」「そんなことがあったかねえ」
 電話は一方的にかかってきて、小学生が母親に今日一日何があったか報告するように、延々としゃべろうとします。どんなことをして、どんなに楽しくて、どんなにほめられたか。
「わたしはあなたの話には興味がない、他の人に話してくれ」と何度頼んでも、壊れたレコードのように何度でもかかってきます。
 そのたびに、断ち切らねばなりません。
 
 すがりつくような思いが伝わってきます。
 私を見て。私を抱いて。私を褒めて。大好きって言って。どうしてそんなに冷たくあしらうの? どうしたら元のやさしい娘に戻ってくれるの?

 でもそれは子どもの役目じゃないはずなのです。

 彼女には最後までわからなかったけれども。彼女が目覚め、違うかかわり方を学ぼうとしたら、わたしもまた復縁したでしょう。
 
 がんばって、がんばって、逆境を乗り越えて、生きてきた母を、わたしは誇りに思います。
 わたしから奪うばかりで、差し出し方を知らなかったのは、彼女だけのせいではなく、時代背景や、祖父母からの影響もものすごくあるでしょう。多分、彼女自身愛情を知らない。両親からも夫からも受け取ることができなかったものを、どうやって差し出したらいいのか、彼女にはわからない。

 でもそこから歩き出すことは、望めば彼女にもできたはずなのです。

 わたしはアダルトチルドレンです。

 でも母だってそうです。

 自覚があるか、ないかの違いしかありません。

 母はバス旅行帰り、脳の大動脈が破裂して即死しました。
 楽しくおしゃべりしていたら、急に意識がなくなったそうです。
 苦労の多い人生の最後が、楽しいものであったことを、娘としてうれしく思い、同時に、永遠にあたえらることなく終わった、母親からの愛情にPTSDを発症しました。

 わたしは、次代に虐待の連鎖を続けないこと、そして、自分自身が自由になることを目指して今も七転八倒しています。

 アカルサハ、ホロビノスガタデアロウカ、ヒトモイエモ、クライウチハ、マダメツボウセヌ 「右大臣実朝」

 いつか、夜明けが来ると信じて

コメント