初めて誤訳に気付いた話
その昔高校生だった頃、わたしは英語の成績がクラスで下から2番目か1番目で、テストを返されるたびに担任(英語教師)に自決しろ、と言われていました。(←いじめじゃないよ。まったく堪えていなかったから) なので特に外国語が得意というわけではありません。
でも日本語で翻訳本を読むのは大好きでした。その中に、『約束』ハイム・ポトク著 角川書店という本がありました。著者はユダヤ人で、信仰やタルムード研究やシオニズムに真っ向から取り組んだ小説を書いています。最初に誤訳に気付いたのはこの本。もう絶版なのですが何十回と読んでいるうちにこれ変じゃない?と気付いた一節がありました。しかもクライマックスで‼
ああ、翻訳って完全とは限らないんだね、というビックリを知って、文章に違和感を感じるときは原文をあたる習慣が出来ました。幸い今はインターネットやdeepLとかいろんなツールがあって原文を確認しやすいです。当時は原書取り寄せから始まりましたが。
『約束』ってこんなお話
『約束』はこんな話。主人公はアメリカ生まれのユダヤ人大学院生。担当教授に認定を貰わないとラビ(宗教指導者)の資格が取れません。主人公の父親もラビで、原文は一言一句神の言葉というわけではないという原典批判の立場で研究をする人でした。
担当教授はラビの世界的権威。ヨーロッパでユダヤ人虐殺を体験してアメリカにわたってきた方。自分の信仰やまだ残っている大切にしているものに強烈に執着していました。絶対に主人公の父親のやり方は認めません。そのやり方を選ぶなら卒業させないと主人公に断言します。
主人公は父親の研究法を愛しているけれども、父親のやり方を選ぶと資格が取れないというジレンマに陥ります。私生活にもいろんな困難が降りかかり、身体の弱い父親は倒れて相談できず、親友と女友達は仲良くなり、知り合った子どもは心を病む。担当教授を敵視したり、親友や女友達や父親を恨んだりしながら、最後は自分の愛と真実を選び、父親の研究方法で卒業試験に挑みます。そして主人公が勝ち取ったものを聞いて、心を病んだ子どもも自らの真実を語り始めます。
卒業試験時の担当教授の言葉がこちら。
「以前わたしの学生の中に、大変な愛情でもってトーラのことを話す奴がいたが、まさに雅歌を聞く思いだった。わたしはこれまで・・・これまで・・・君の声を聞くまで、アメリカで雅歌を聞いたことがなかった。君の言葉ではなくて、声だよ・・・・君の父上の方法は、印刷された頁の上で見る限り、なんの暖かみもない。トーラへの愛を印刷することなど不可能だ。だが声で聞けばそれがわかる」
翻訳はこうでした。
「以前わたしの学生の中に、大変な愛情でもってトーラのことを話す奴がいたが、まさに白鳥の歌を聞く思いだった。わたしはこれまで・・・これまで・・・君の声を聞くまで、アメリカで白鳥の歌を聞いたことがなかった。君の言葉ではなくて、声だよ・・・・君の父上の方法は、印刷された頁の上で見る限り、なんの暖かみもない。トーラへの愛を印刷することなど不可能だ。だが声で聞けばそれがわかる」
※白鳥の歌・・・白鳥が死ぬ前に妙なる声で歌うという伝説 転じて人の亡くなる前の作品
※雅歌・・・旧約聖書に収録された愛の歌
※トーラ・・・モーセ五書
小説が一番盛り上がったあたりで、亡くなる前・・・? あれ? 暖かみや愛を表現という形容と何かが違う。ずっと正統派ユダヤ人の描写が続いた中に、なぜ白鳥? 妙なる声というのは伝わるけれど。
不思議に思ったので原文を取り寄せて謎が解けたのでした。swan song ではなくて song of songsという言葉だったのです。ユダヤ人の思いを伝えるのに、旧約聖書の雅歌が出てきて、本当にしっくりと嵌りました。愛の歌。神への歌。原典を大切にする教授の心がどんなに震えたか、一言で伝わってきます。
メタな視点では原典研究の本を読んで誤訳に気付いたのもなんだかおもしろい♬ さらに偶然ですが大学で学んだ聖書学講義がまさに原典研究で、本当にいろんな時代の文章が一つになって福音書や黙示録が出来ているのを知りました。
自分の感性を大事にしよう
最近もなにか変だなあと言う翻訳に出会って原文を当たったら、真逆の意味に出会いました。
自分が苦手な分野でも、自分のセンサーを使うって大事だなあと思う次第です。
どんな人も、微妙な違和感とか、ちょっと引っかかる感じって日常でたくさん感じているのではないでしょうか。
その時、ほんの少し立ち止まって自分の感性を大事にしてみると、面白い世界が拡がるかもしれません。
でもって、それをするときに必要になるのが、自分の真実や感覚を大切にすること。素人であっても自分自身に権威を持つこと。そして間違いには間違いなりの意味や深みがあって、間違いが駄目というわけではないと相手に敬意を持つことなのかなあと思う次第です。
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