49.わたしだけはわたしの味方だよ

とてつもなく理不尽で人を傷つけることをしたいときがある。
やってしまった後で、後悔する。
自分が嫌いになる。
誰からも責められる。
もっともだと思う。

でもやってしまった。
なぜだかわからない。

もっと穏やかなやり方があったはずなのに、どうしてそうしてしまったのか。
相手はえてして、とてもよくしてくれる援助者だったりする。

手を振り払った後で、やっぱりそれを手に入れようとして、総すかんをくらったりする。

助けてあげようと思っていたのに、それを無視したあげくに、今になって何を言っているのか。

当然だと思う。
その通りだと思う。
自分がもっと嫌になる。

・・・昔、大学院に行こうとして、周りにもそう言っていて、直属の教授たちに、どんな成績でも合格だから、と保証されていたにも関わらず、試験の回答を白紙提出した。

報告に言ったら、教授は腰を抜かした。
大の大人が本当に腰を抜かして座り込む姿を初めて見た。
それまでは愛弟子だったので、誰も予期していない反逆だった。

来年、また受けるつもりだと言うと、とてつもなく否定的な反応が返ってきた。
もう助力はできないと真っ向から言われた。

試験を受けた。
落ちた。

それみたことか、と言われた。

・・・・・・ものすごく、ほっとした。
ああ、もう院に行かなくていい。

あの時何がおきていたのか、ようやくわかった。

勉強したかった。
もっと知りたいことがあった。

でもそれは院で学べることじゃなかった。
院で学べることを学ぶには、わたしの学力は足りなかった。
でも誰にも言えなかった。

学ぶ=進学だと思い込んでいたから。
学ぶ=進学 or 就職 の二つの道しかないと思い込んでいたから。
周りの誰もがそうだと言っていたから。
そして院に進む協力はいくらでもするといってくれていたから。

わたしは学びたくて、その協力をしてくれる援助者がいて、でもどうして毎日毎日、苦しくてたまらなくなるのか、止めたくてたまらなくなるのか、そのための努力を一切したくなくなるのか、どうしてもわからなかった。

入試のその日まで、何も言えなかった。
でもどうしても試験を受けられずに、わざわざ白紙で出した。

どれほどの人の面子をつぶしただろう。
どれほどの人の期待を裏切っただろう。

学びたいのに。

学びたければ進学したらいい。(その通りです)
進学の協力はいくらでもする。(ありがたいです)
でなければ、就職だ。(生計を立てなきゃいけないのは当たり前です)

全部、言われる通りなんです。
でもできないんです。

だって、わたしがしたいのはそれとは違う。
(どう違うの?って聞かれても、説明はできないけど。筋道立っていわれることはもっともだけど。でも何かがある。けど説明なんかできない)

最近、飛行機は逆風に向かってしか飛べない、という話を聞いた。

順風の中では飛べないんだよ。

なんで、あんなに過激な反応をしてしまったのか、やっと腑に落ちた。

世間が規定したルールやお膳立ての中では発揮できない何かをわたしは求めていた。
誰もが助けてくれるという。
どんな助力ができるか、何を得られるかを教えてくれる。
学びたいと言ったわたしの意志や気持ちを尊重してくれる。

でもわたしが何を欲しがっているのかは誰も聞いてくれない。
わたしの魂には寄り添ってくれていない。

何かが違うとわたしのどこかが言う。
でも援助者に向かって、それを訴えることはどうしてもできない。
反対する人に、反旗を翻すのは簡単だけど。

それでもわたしがわたしを生きたいなら、あなたがたが与えてくれるものじゃなくて、わたしが求めているものが欲しいと言おうとしたら、とことんまで反対方向に進むしかない。
そういう形でしか、表せない。
あなたがたを傷つける行為でしか、証明できない。

だって、わたしが何を求めているのか、わたし自身にもまだわかってないんだから。

おお、かしこかったんじゃん、あのときのわたし。

ようやくそういう気持ちがわいてきました。

ひどい人間だなあ、とか、責められるのは当然だよとか、頭は自己嫌悪でいっぱいになっていたし、ずっと後悔もしてきたし、ああいう人を傷つける行動は止めようとも思ってきたのですが、真綿の中で息が詰まるんだったら、またやってもいいな、という気がしてきました。

・・・院試だけじゃなく、実際に他の場面でもやったことがあるしね。

そういう自分を責める気持ちがずっとあったのですが、それでもはね除けたい何かがあったんだなあ、と、ようやく認める気持ちが出てきました。

周りの人にはものすごく顰蹙な行動なんだろうけど。
もちろん、そういう羽目に陥らないように、自分の根源と仲良くできればそれに越したことはないわけだけど。

でも、

わたしだけはわたしの味方だよ。

そういう宣言をしていたんじゃないのかなあ・・・。

わたしはわたしでありたいよ。

五里霧中で、なにが欲しいかも自分自身もわからない中で、それでも自分の味方をしていたんだなあ、すごいなあ、かしこいなあ。

過激な行動や、反社会的な行動や、人を傷つける行動は駄目だ。

頭はそう主張するけど、どこか果てしない深いところから思いもよらない望みが頭を覗かせるときには、なんかそういうのもありだよね。
(誰かに正しさを認めてほしいわけではありませんが。いやもう、その行動が正しいか正しくないかといったら、正しくないとしか言いようがないけれど。でもそんなのどうでもいい)

何か過激なことをしたくなったり、してしまったりしたときには、ゆっくり自分の魂に寄り添ってみようかな、とそんなことを今は考えています。

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