28.「それでも人生にイエスと言う」

アウシュビッツを体験した精神科医フランケルの「夜と霧」の次くらいに有名な本。

私はアウシュビッツにいた。マイダネックにいた。18年間。

強制収容所でのいちばんの苦痛は、

いつ終わるのか、終わらないのか、楽になるのか、ひどくなるのか、この生に意味はあるのか、ないのか、がわからない

と、いうこと。

読み返したいけどトリガーなので読み返せません。

格闘していた日々のフラッシュバックがおきるから。

今は1年半の無駄な治療の後、

私に向いたカウンセラーと出会って、

●眠れるようになりました

●個人への憎しみがなくなりました
 

あの人があの時これをした、という憎悪はきえました。

花の写真撮っているでしょう。

ありえないことだったのです。

私は花が大嫌いだから。

なぜなら、母が子どもの世話をせずに、花の世話をしていたから。

今日、ご飯があるのかないのか、あるなら何時になるのか、判らない日々。花だけは1時間以上世話をされる。子どもは10分。毎日。

これは一例。山盛りのあれこれがどうでもよくなりました。

そのときを思い出すとイタイ。けれども母個人を憎むのではなく、

あの時私は淋しくて苦しくて大変だったな、という私の問題に変りました。

父も一緒。

暴力も、暴言も、悪意も、否定も山盛りで、それ自体は苦しいし、
癒されていないけれども、

彼を憎む気持ちはなくなりました。

●二人とも普通の人間に見えるようになりました。

まだまだなこと

●絶対安全なところに引きこもっていても、ほんのわずかな刺激でフラッシュバックが起きます。恐怖も憎悪も果てしないです。

●産まれた時から否定され続けた自分をどうやって大事にしてやればいいのか判りません。

●抑鬱 軽快してきた。ときどき笑顔(本物)が出るようになったけど、ぶり返すのはあっという間というくらいに危うい。

●人ごみ、音、人の声全部駄目。

今、回復中なのか、まだ大きな山が控えているのかは判りませんが、

あの強制収容所のような実家にいたときから、

私は「それでも人生にイエスと言」って来ました。

この信頼がどこから来るのか判らない。

いつ死んでもいい、今死んでもいい。いまだに。

でもどんな状況にあっても、生きることは正しいと思ってきました。

だから生きのびてこれたのだと思うし。

人生に意味なんてない。

私の脳が、体が、心が、認知する

私の見方で捉えたものが世界だから、

世界の色合いなんて、幸福にも、不幸にも、自在に変る。

嘘をついて、自分は幸福だと思い込んでいる人も沢山いるけどね。
もしかしたら私たちが見ているほとんどの人はそうかもしれない。

私は要らない重荷を手放して(けして宗教的な意味ではなく)、身軽になって、人生をまた歩き始めたいと思います。

まだまだ、先だけど。

でも今でも、こんな状態でも、生=是 です。

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